いさりば

面影とは最後に会った年齢で生きている。

私と同年代の従妹が突然突発的な病気で亡くなった。

不幸ごとは身内親類を集めさせる強制的な力がある。

私ら夫婦で地元へ駆けつけた。

数年来はもとより、数十年来顔を合わせることがなかった知人が集まった。

それとなく顔を見ると名前は出てこないが面影はある。
30年ぶりの従妹に挨拶をしたがよく誰か判っていなかった
そっと周囲の人に聞いて回っている。

幼少の頃からよく可愛がってくれた従妹だった。

暫くして赤面、涙目で近寄ってくれていきなり抱きついてきた。
懐かしさと、気がつかなかったこと、不幸ごとの思いが一気出たんだろう。

私の名前を呼びながらただただ泣いている。当然お貰いはあり何故か涙が溢れた。

相手が分かる知人に挨拶をした。
以前(若かりしころ)ならば親の名前を言って自己紹介すればお互いに分かり合えたが

年を増すと親ではなく地元に住む兄弟の名前を言えば分かってもらえるようである。

数十年振りに出会う知人の場合、最後にあった時の印象、面影を持ち続けているので現実を見た時に表には出さないがショックであったりする。かなりのインパクがある。
なるほど人は最後に会ったときの面影を
ずっと持ち続け次に会ったときリセットされ新たにインプットもしくは上書きされるんだ。

そうか私の青春時代の面影は久しぶりに出会う知人の中にあることを実感させられた。
私の記憶にない やんちゃで可愛いらしい私の思い出を聞かされ自分のことでありながら「かわいい奴だな」と話に乗せられてしまう。

少しニヤっとしてしまった。

今未練がましく執着している若さ、青春、健康などなどは天然、自然のまま周りの人たちの想いのなかに生き続けている。

当たり前だがよく考えると不思議であり素敵なことだと思う。

「私の青春は貴方の奥にしまってあります。」

といっても過言ではなかろう。

只、悲しいことに再開したときが新たな面影のスタートだということだ。
亡くなった棺の中の従妹はそれを知ってか最後に会ったとき
と同じ顔で最高に輝いていたのが胸を打った。

あの面影?は私の心に命ある限り生き続けるということになる。

特に男女の場合合わないままで面影のみで交流するのも若返るチャンスかもしれない。
再会するまではネ


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