いさりば

歴史で見るベトナムと日本の関わり

生か死か、凄まじい闘争の果てに歴史は現代へ続く。大国の激しい対立、昨日までの盟友が冷徹に牙を剥いた。自由は奪われた、同士を死に追いやる冷酷な現実。権力闘争の果て、民族は引き裂かれた。
人類滅亡の危機、大国の驕りは悲劇をもたらした。そして市民たちは変革を求め、ある時は倒れ、又ある時は歴史を変えて自由を手にした。遥かなる世界の果てで今日も戦慄は駆け巡る。
人は誰もが平和を求めている、それなのにどうして人は争い、傷つくのか。

ベトナムについて近代史を調べてみた。まさに前文にある大国の対立が生んだ結果である。文中の「人は誰もが平和を求めている、それなのにどうして人は争い、傷つくのか。」そのもの戦争が日常化していたベトナム

日本軍の仏印進駐

※仏印(フランスの植民地のインドシナ半島)

ベトナムと日本の関わりは第2次世界大戦終結前からである。日本、ドイツ、イタリアの3国同盟を結んでいた日本はフランスがドイツ負けた時植民地であったベトナムに進駐した。

目的はアメリカの中国への支援ルートを断つことである。当時日本と中国とは泥沼の戦いをしていた。アメリカは中国を支援しベトナムから陸路中国の蒋介石軍に物資補給をしていた。(援蒋ルート)

ベトナムでは米を栽培していたが日本は軍事用麻袋が必要だった為米を麻の栽培に転換させた。当然生産量が落ちた上米は日本軍が買い取っていた。

その後、干ばつが襲い結果的に200万人(諸説有り)が餓死したとされる。

ベトナムでは独立を求める「ベトナム独立同盟会」という組織が幅広い層から作られた。1945年8月15日、日本がに戦争に負ける直前、日本の援助下でベトナム帝国の独立を宣言した。

独立のために戦った元日本兵

日本が負け撤退するとフランス軍が再度植民地化するためにベトナムに攻め込んだ。フランスとベトナムの戦いである。

1945年8月15日、大東亜戦争が終結しても、なお約800人の日本軍将兵がベトナムに残り、その多くがベトナム独立のために、インドシナ支配を再びもくろむフランス軍と戦った。

同年9月2日、ベトナム民主共和国の独立を宣言したホー・チ・ミンは、日本軍の兵器の譲渡を求め、残留日本軍将兵らにベトナム人指揮官の養成を願い出た。

かくしてベトナム中部クアンガイに、グエン・ソン将軍を校長とする指揮官養成のための「クアンガイ陸軍中学」が設立された。この学校は、教官と助教官が全員日本陸軍の将校と下士官というベトナム初の「士官学校」であった。

クアンガイ陸軍中学は、ベトナム全土から選抜されてやってきた青年が、実戦経験豊富な日本人教官から日本陸軍の戦術をはじめ指揮統制要領を学んだ。

フランス軍は目を疑った。

少し前まで非力だったベトナム人が、見違えるように強くなり、しかも見事な近代戦を挑んできたのだから。

現代ベトナム軍の基礎は旧日本陸軍によって作られたのである。そして元日本兵が最前線でベトナム人を率いて戦った。
第1次インドシナ戦争ではフランス軍との戦闘で多くの日本人が戦死している。中には、その後のベトナム戦争でアメリカ軍と戦った者もいたとみられている。

日本の援助下でベトナム帝国” の独立を宣言した。

残留日本兵がおり、”ジュネーヴ協定”成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。日本側には一次資料が乏しく、イギリスやフランス側の史料も合わせて参考にすることが求められる。

南ベトナムとの国交樹立と戦争賠償

1951年に日本政府はベトナム国” 南ベトナムと平和条約を締結し
1959年には岸信介第2次岸内閣がベトナム共和国政府と140億4000万円の日本の戦争賠償と戦後補償 支払いで合意した。

最後に

ベトナムはこの後アメリカとの戦いになるが戦争一色の国だ。指導者んお思惑一つで大量の人が死ぬ。
凶悪犯罪でころではない、赤ちゃんも女性も老人も殺す戦争はやってはいけない。何にも徳はないよしんば良いことがあっても政界が変われば抹殺される。

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